vol.040 退屈こそ究極の贅沢

町田さんが編集された今回の『キャンピングカー スーパーガイド』は、今までのものと、どこか違う。何かが違う。

この2009年版には、これまでのカタログ誌的な作りでは見られなかった、“物語”が収録されている。
巻頭に掲載されている編集長自らが書かれたアメリカモーターホームの旅行記のことだ。

これがただの旅行記で終わっていない。
ひとつの思想を伝えてくる。

一人で孤独をかみしめること。
何もないような、茫漠たる風景に接すること。
途方に暮れるような「退屈」を感じること。

それこそが「非日常」であり、そこに「旅の原点」がある。

シンプルな写真構成とシンプルな言葉で綴られた巻頭特集は、そう語っているように感じられた。
衝撃を受けたのは、10ページに掲げられた「天と地」だけの風景写真。

私は、1日中空ばかり眺めたり海ばかり眺めていることに意義を感じる性格で、そういうことにキャンプの真髄があると思っている人間だが、その私が衝撃を受けたくらい、とてつもない解放感が感じられた写真だった。

この町田さんのアメリカ紀行を読み、私は私なりに、ひとつの疑問が氷解したことを感じた。
どのような疑問かというと、「メニューの充実したキャンプは、なぜ印象に残らないのか?」ということだった。

私は、家族や仲間と交わって、わいわいとバーベキュー大会などを繰り広げるキャンプも好きだ。そういうことを、もう何10年も繰り返してきた。

しかし、そういうメニューの濃いキャンプは、後から思うと、あわただしい印象ばかりが残り、くつろいだとか、ゆったりできた…という思いは残っていない。
最初のうちは、「楽しい時間は早く過ぎる」という言葉を信用して、当日は本当に楽しかったのだろうな…と自分を納得させるようにしていた。

でも本当にそうなのだろうか?

改めて考えてみると、充実したキャンプとして、自分の印象に残っているのは、海や山を眺めるしか時間の潰し方を知らなかったシングルキャンプの思い出ばかりなのだ。
心のアルバムを繰ってみると、画像として浮かび上がってくるのは、仲間とビールを酌み交わすワイワイキャンプよりも、独りぼっちで天と地だけを眺めて過ごしたシミジミキャンプの方ばかり。

何が違うのだろう?

そこに「退屈」があったか、なかったのかの違いではないか?

つまりワイワイキャンプは、退屈を感じるヒマがないほど楽しかったから印象に残らないのであり、シミジミキャンプの方は、最初から最後まで退屈な思い出ばかりに満たされているがゆえに、かえって印象に残っている。
ここに「人生の逆説」があると思う。

「退屈」というと、たいていの人はその言葉からネガティブなニュアンスを思い浮かべ、避けるべきものとして忌み嫌う。
しかし、「退屈」を感じるのは、贅沢な心境だと思わなければいけない。
それは日頃仕事に追われたり、人間関係の軋轢の中であえいでいる人間だけに許される特権的な感情なのだ。

重病を抱えて入院し、自分の運命がどうなるか分からない不安を感じている人は、毎日同じ窓から同じ風景を見続けても「退屈」を感じる余裕などないだろう。
逆に、入院患者が「退屈」を感じるようになれば、それこそ健康が回復してきたことの証となる。

「退屈」とは、とても意味の深い、ありがたい感情なのだ。

町田編集長の『キャンピングカー スーパーガイド』の巻頭特集の読み物と写真は、そのことを私に教えてくれたように思う。

一本の地平線が、天と地を分けているだけの恐るべき「退屈」な写真。
その光景に接し、「どうしてこんな単調な世界が生まれのだろう?」と、ただ途方にくれるだけのシンプルな文章。

しかし、そのページには、私にはとても豊かなものが詰まっているように感じられた。
心が風に吹かれて飛んでいきそうな空っぽの風景に接しながら、それを見つめている町田さんの心には、「退屈な風景が面白くて仕方がない」という好奇心が燃えていることがすぐに分かった。

「退屈」は、今の時間が充実していることを教えてくれる貴重な感情だ。
それを嫌ってはならない。

そういった意味で、私は昔から「退屈の名人」だったのかもしれない。
私は、しみじみしたシングルキャンプを味わいながら、おいしいヤキイモが焼ける焚き火の作り方、アジの開きのおいしい食べ方…、そんなものばかりを開発することに熱中していた。
それは今思うと、退屈から逃れるためのヒマ潰しではなく、「退屈な時」をよりディープに味わうための「聖なる儀式」だったのかもしれない。

今回の『キャンピングカースーパーガイド』。
「途方に暮れるような退屈」をガーンと提示された。
でもそこに、今まで気づきもしなかったひとつの可能性があるようにも思えた。

ワイワイキャンプの向こうにあるシミジミキャンプという可能性。
それこそ日本のオートキャンプの将来の「成熟した姿」を暗示しているような気がしてならない。
ぜひ、ご一読を。

【町田の感想】 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■

今回の池田さんのエッセイは、私が編集した『キャンピングカースーパーガイド』の巻頭読み物に対する感想です。
いやぁ、こんなにはっきりと見抜かれてしまえば、もう返す言葉もありません。

さらに私の稚拙な表現を、文意の整ったロジックとしてまとめあげていただいたおかげで、何やら今回の旅行記に“深い意味”が隠されているような印象が付与されました。
うれしい限りです。
御礼を申し上げます。

さて、私の旅行記を導入部として上手に使って、今回展開された池田さんの「退屈観」。
なかなか見事な省察です。
私たちは日常生活の中で、退屈を恐れ、退屈を忌み嫌って生きてきました。
しかし、それを「贅沢な心境」と喝破される論理には意表を突かれる思いでした。

「退屈」は、労働することに価値があると決められた近代社会で生まれてきた心情です。
つまり、労働から解放されることは「罪」であるという意識の中で位置を与えられた感情です。

しかし、「何もしない時間を持つ」ということは、近代社会以前ではとても贅沢なことであったはずです。
だから昔の人は、現代人が「退屈」と感じる時間に、さまざまな優雅な意匠を盛り込み、それを「豊かな時間」として感じる工夫を凝らして文化を育んできました。
歌を読んだり、詩を観賞したり、音楽を聞くなどという文化は、みな「退屈」な時間が前提となって生まれたきたものばかりです。

池田さんの洞察は、「退屈こそ文化を生む土壌」であることをものの見事に突き止めています。

「何もしないことの豊かさ」。
そこにキャンプの真髄があるという指摘には、う~ん! その通り…と納得するしかありません。

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